三上みくさん
ご夫婦で乳がんを乗り越えた体験記等講演会でも活躍中の、等身大で飾らない語りが人気、
ひだまりライフ代表三上みくさんの体験記です
【誕生日前日の乳がん宣告】
子供はもうすぐ2歳。家事に育児に仕事にと毎日慌ただしく追われていたある日、入浴中にふと触れた左胸に決して小さくないしこりがあることに気づきました。触れた瞬間、緊張感とともに何ともいいがたい嫌な予感に飲み込まれ、全身がサーっと凍り付いていったあの感覚を今でもはっきりと覚えています。
と同時に、その恐怖を打ち消さんとばかりに私の頭の中はめまぐるしく情報が駆け巡り始めました。10年ほど前、30代前半に乳腺線維腺腫や乳腺嚢胞が見られ、それからほぼ毎年定期的に乳がん検診を受けてきたことを。検査結果は毎年「良性」。問題ないと言われることにすっかり慣れていたため、まさか癌のはずがない、という強気の思い。それに、出産後もしばらくは母乳マッサージ教室に通うなど胸に触れる機会は頻繁にあった。ついこの間まで何の違和感もなかったはずなのに・・・。
もう一度、恐る恐る触れてみる。1~2センチ?それなりに大きい。どうして今日まで気づかなかったのだろう・・・・。
頭は真っ白。クラクラとしながら子供の入浴を済ませるのが精一杯でした。
クリニックでの検査では、当初癌ではない可能性の見立てもあり、病理結果が出るまでの数日間は早く悪夢が覚めてほしいとそれは落ち着かない日々を過ごしました。折しも明日は43歳の誕生日。このタイミングでまさか癌だなんて恐ろしい結果を聞かせるほど神様も意地悪なはずがないと。でも、そうした私の願いはあっけなく崩れ落ちました。
検査の結果は、非浸潤性のステージ0。「癌の中では顔つきの良い穏やかなものです」と言われても、癌は癌。説明を受けながら目の前が真っ暗になりました。
その晩は子供をなんとかようやく寝かしつけた後は力が抜けてしまい、気づくと呆然とソファに横たわったまま誕生日を迎えていました。
(誕生日前後の写真がほとんどないのが当時の余裕のなさを物語っている)
【病院嫌い】
私はもともと病院が苦手でした。
長い待ち時間の果てに診察室に入ると、待ち疲れに追い打ちをかけるような先生の淡々とした口調やなんとも話しにくい空気。こちらが悪いわけでもないだろうに、なぜか教師に怒られる生徒のような心境になってしまう。もちろん、すべての病院がそうだとは思っていません。でも、不調を改善したいがために赴くのに、かえって気持ちまで滅入ってしまうこともある。
よほどのことがないと病院には行かないタイプでした。
癌が発覚する少し前、顔を中心に炎症が広がりなかなか治らなかったことがあります。しばらく通っても良くならない時は別の病院へも行きました。アレルギー検査に始まってステロイドの湿布、服薬、漢方の処方など、、。最後は先生も頭をひねっているのを見ながら、治る兆しの見えない状況で処方される薬だけがどんどん強いものになっていくことに不安と嫌気を隠せなくなっていました。「これ以上、一体どうしたらいいの・・・・」と。
こんなに病院に通っても治らない。他に手立てはないかと色々と調べ始めると自然療法、民間療法といったキーワードが次々に私の目に飛び込んでくるようになってきました。調べていくと、私に足りなかったものが見えてきました。まだできることがあるかもしれないと思い、それからは取り入れられることから始めてみることにしました。結果として湿疹は消えていきました。
【治療の選択】
そんな経緯もあったので、癌になって治療方法の説明を受けたときどうしてもすんなりと受け入れることが出来ませんでした。もちろん、癌と湿疹では事の重大さが違うと頭では分かってはいましたが、それにしても告知を受けてすぐに外科手術や放射線など治療のスケジュールを矢継ぎ早に提示されても全く心が追い付いていきません。対処療法が中心となる西洋医学の治療。エビデンスがある標準治療だと説明を受けても、本当にその治療は私にとってベストなのかどうか判断できませんでした。それよりも根本的な原因を見つけ治療を施していく東洋医学の治療法を選択したいと思うに至ったのは当時の私にとっては自然な流れだったのです。
20代後半から30代はほぼ全力で仕事に人生をかけてきました。
ですがそんな生き方に限界や疑問を感じ始め、30代後半からは自分自身のプライベートな部分にようやく目を向け始めるように。仕事もスローダウンし、不妊治療を経て41歳で初産。
やっと授かった息子。できれば兄弟を作ってあげたい、そんな気持ちを抱えながらも一人目の育児に追われる日々。年齢的にリミットが近いこともプレッシャーになっていました。
その上、胸がなくなるかもしれないなんてとても考えられない・・・・・。
身体に負担のかかる方法は極力避け、癌を治したい。
しばらくは、主人と共に情報収集に明け暮れる日々でした。名だたる癌専門病院でのセカンドオピニオン、癌に関する本や知人からの情報など。すると、皆が皆、標準治療を選択しているわけではないということもわかってきました。三大医療以外でも癌を克服した人たちもかなりいるみたい・・・。
私もそうした選択でなんとかならないかと思う気持ちがどんどん強くなっていきました。
(乳がんを宣告された時 息子はまだ2歳)
【恐怖と依存】
そうした考えや選択自体は今でも間違っていたとは思いません。むしろ取り入れてよかったことがたくさんありました。例えば、癌は生活習慣病と言われます。生活習慣病とは、その言葉の通り日々の生活の中での食、睡眠、運動、ストレスなどの生活習慣が深く関与し、発症の原因となる病気です。長年積み重ねてきた習慣のどこかに原因があるのだと考えられます。だから生活習慣を正していくことが大事なのですが、その習慣の一つ一つを正すことは実はそう簡単でないとやってみて気づきました。なぜならそれら選択と行動の背景には、その人の心の状態が色濃く反映されるとも気づいたからです。私の場合、ストレスを感じると暴飲暴食になりがちでした。でもストレスの原因には目を向けず、食生活だけ正そうと思っても、それは一時的な我慢に留まりがちで結局どこかで反動が出てしまう。なかなか根本的に変えることが出来ずにいまだに苦労している部分です。
だから、表面的に治療だけ施しても、自分の心の状態から向き合い、なぜこのような生活習慣になったのかをしっかりと考えそこから正さないことには本当の意味で治療をしていると言えないのではないか、と思うに至ったのです。
そこで、私は、食生活など生活習慣の改善とともに、そうした自分自身の心の状態を確認する作業を徹底的に行いました。これをしたことで、これまで気づいていなかった「自分」にたくさん気づくことが出来、その気づきを通して少しずつ自分自身の行動に変化が出てきたことは確かでした。
そして、行動が変わるにつれ、同じような状況が起きたときの結果がずいぶんと良い方向に変わっていることも体感してきました。
(発酵食の勉強を始めたのもこの頃:発酵自然食の恩師とともに)
一方で、当時の私には自分で認識できていなかった大きな思い違いもありました。
それは、恐怖に蓋をして、自分が癌だという事実をちゃんと受け止められていなかったということです。そして、受け止められていなかったがゆえに、「自分で治そう」よりも「誰かに治してもらいたい」という気持ちでいたということです。
「もしかしたら叶うかもしれない妊娠」「もしかしたら叶うかもしれない乳房温存」「これまでになく自由度が高く働ける仕事環境」今手放したら、どれももう二度と私とは縁のないものになってしまう。
そう思うと、どうしても諦められずそれを回避できそうな方法にしがみついていたのだと思います。
だから、そうした自分の願いを断ち切るような「胸を切って、放射線治療をする」という選択には蓋をしてしまい、排除してしまいました。
ステージ4からだって助かっている人がたくさんいる。自分が納得のいく方法でやってみようといろいろなことをやりました。よかったと思えるものも、そう思えなかったものもありました。ただ、そうした独りよがりの治療を続けていく中で次第に重くのしかかってきたのが「【治ったと言える日】がいつ訪れるのかわからない」という現実でした。
結局、私は自分にとってこれだと信じ切れる方法を見つけることが出来ないまま、周りの情報に振り回され、依存ばかりしてきたのです。
気付くと、左胸に一つだったしこりは全体に広がっていました。
【分岐点。そして新たな治療へ】
ステージ0の診断から約1年半ぶりの検査。
最終的な診断は、ステージ3C リンパ節転移あり。
手術で胸がなくなるどころか、すぐに手術をすることすら出来ず抗がん剤の治療からスタートという、最悪なシナリオを突きつけられることとなってしまいました。
その時の感情は、つらい、悲しい、怖いよりも、なんだか悔しく情けない思いが強かったように思います。ここまで本当に真剣に情報集をしてきたし、自分の身体や心に向き合ってきました。
それなのに、どうして「あの人たち」と同じように治すことが出来なかったのだろう、と。
そんな風に自分を責めてすらいました。
でも、仕方ありません。ここまで来てようやく腹をくくる覚悟が出来ました。
自分が癌だということをやっと心の底から認めることが出来たら、肩の重荷が取れ、目の前の治療に専念する気持ちが湧いてきました。
夫とは緊急会議を開きました。これからの難局をどう乗り切ろうか、これから始まる治療で想定内・想定外の事態が起きたとき、その一つ一つにどう対応していこうか、と。
徹底的に不安や恐れを言葉にし、共有したら、何も状況は変わっていないはずなのに不思議と恐れが軽減していることに気づきました。これまで私は恐怖のあまり、自分に都合のいい選択しかしていなかったのだということもようやく認めることが出来ました。
(カラオケボックスで夫と緊急会議)
【等身大の自分で】
ステージ3C。
抗がん剤からのスタート。髪も抜ける。副作用も未知の世界。
これまで最も避けたいと思ってきた道でした。
でも、主人との緊急会議のおかげで恐れをあぶりだした後は、決めたことを突き進むだけでした。
これまで地道にやってきた体質改善や振り返りも無駄ではない、プラスに働いてくれるとそう肯定することが出来ました。
実際、抗がん剤投与中は副作用に悩まされることはほとんどなく、仕事を含め日常生活をほぼ普段通りに送ることが出来ました。それどころか、普通に動けることに喜びを感じ、やりたいことでスケジュールを埋め尽くすほどエネルギーに満ち溢れていました。
(差し入れの数々 たくさんの愛に支えられてきた)
あるとき、抗がん剤による脱毛のことを知りたくてネット検索をしていた時のこと。
脱毛経験者の方自身による写真展のことが綴られているサイトを偶然目にしました。
そして、そこに写っている方たちのあまりの美しさに思わず目を奪われました。
自然体で飾らない姿。それは凛としていて息をのむほど美しいものでした。私は、これまで「髪が抜けた自分をかわいそう」やら「癌になって情けない、認めたくない」という思いで、自分で自分を縛ってきたことにも気づかされたのです。
【どうせやるなら楽しく】
長女だったことも大きいかもしれません。物心ついたときから、真面目に、親が敷いてくれたレールを一生懸命踏み外さないように歩んできました。真面目にやってきたおかげで培われたものもたくさんあります。
ですが、気づけば自分の本当の気持ちやありのままの自分を気楽に出せない、少し窮屈な生き方をしてきたのだと思います。
(幼い頃のみくさん(向かって右))
癌になった時も、自分の身体を病気にさせてしまったと、自分自身の管理能力の無さを責めていました。
こんな情けない自分を到底周りにさらけ出すことはできない、と。
今思うと、それはなくても良いプライドでした。
ステージ3というもう一歩も予断を許さない状況に追い込まれて、ようやく今までしがみついてきたモノたちを手放す覚悟を決めることが出来たのです。
そして、これまでの自分では信じられない行動に出ました。
3月、桜の開花宣言が出たその日、ほころび始めた桜の中で、私は仲間を集めて撮影会を主催しました。メイクも撮影もプロに依頼をする徹底ぶりです。もちろん、ウイッグを外して。
(手術直前に仲間と記念撮影)
【悩むのは当たり前。だからこそ自分で決める】
結果として、今私は生きることができています。そして、今日に至るまでの選択は私にとってどれ一つをとっても無駄なものはなく、確実に私の中で生きていると確信しています。
病気になった時、ことさらそれが命にかかわるとき、こんなにも人は右往左往し、迷いに迷うものなのだと自分の経験を通して痛いほど学びました。
そして、誰にでも当てはまる正解がないからこそ悩みに悩むのだということも。だからこそ、「自分にとって」悔いのない選択をしてよかったと、心の底から思っています。
乳がんのおかげで自分がどんな風に生きていきたいかを見つめ直すことが出来ました。
自然体で自分らしくあり続けられるように、私はこれからも自分の心に正直に、しっかりと向き合い、選択を重ねていきたいと思っています。
三上みくさん プロフィール
三上みく(みかみみく)
ひだまりライフ代表
乳がんサバイバー/ピンクリボンアドバイザー(初級)
発酵自然食インストラクター/発酵ソムリエ/メディカルアロマプラクティショナー/ナチュラルビューティスタイリスト
経歴
20代、30 代を IT ベンチャーのスタートアップから上場企業になるまでを社長長秘書、広報の 2 足のわらじで働きウーマンとして駆け抜ける日々を過ごす。そんな中、うつや妊活、高齢出産、子供のアレルギー、そして乳がんと現代女性がぶつかる壁を克服。度重なる心身の不調や女性としての生き方に向き合う中で、心と身体の繋がりの重要性に気づき、真の健康のためには、外側(身体×食事)と内側(心)がバランスよく整っていることがいかに大切かを身をもって学んだことで、医療に頼るだけではない、手軽に取り入れられるセルフケアによる健康法の実践を重ねている。
現在は、自身の経験や自然療法などから学んだことを通じて「病気になりにくい心と身体作りに必要なこと」を提唱し、忙しい現代女性が日々の暮らしをすこやかに、笑顔にその人らしさを整えていくためのヒントを発信中。